
層雲峡が「名所」になるまで
北海道中央部に位置し、約20の山々が連なる火山群、大雪山。その大雪山北麓の石狩川上流に、層雲峡と呼ばれる峡谷があります。約24㎞続く断崖絶壁の中に大函・小函、銀河の滝、流星の滝といったさまざまな見どころがあり、観光地としてその名が知られています。
しかし、「層雲峡」と呼ばれるようになったのは20世紀に入ってからのことでした。幕末から明治にかけて開拓のためにこの地が探検される前は、層雲峡は「峡谷」を意味するアイヌ語の一般名詞である「ニセイ」と呼ばれていたようです(1)。
この景観に固有の名称を付けた最初の人物は、開拓使の役人であった高畑利宜であったとされています。明治5(1872)年、上川地方(北海道中央部)探検の時に現在の大函・小函のあたりを「函川」、現在の流星の滝・銀河の滝を「夫婦滝」と名付けました(2)。
日本地理大系 北海道、樺太篇
日本の国立公園
また、明治43(1910)年には、愛別村の村長であった太田龍太郎が石狩川上流を探検した際に現在の層雲峡を「霊山碧水」、「霊山渓」(3)と名付けています。霊山碧水の名は層雲峡の名が定着してからも文献に登場しており(4)、一定の知名度はあったと考えられます。
現在の「層雲峡」という名称は、作家の大町桂月(1869-1925)によって広く世に知られるようになりました。
大町は日本各地を旅し紀行文を残したことで知られており、北海道には大正10(1921)年と翌年の二度訪れています。層雲峡に関する随筆として「北海道山水の大観」、「層雲峡より大雪山へ」(5)を発表しました。
層雲峡周辺を訪れたのは大正10(1921)年8月のことで、その時見た光景について次のように書き残しています。
奇抜にして雄偉なること、天下無雙也。この無雙の神秘境に、従来未だ名あるを聞かず。止むを得ず、層雲別の部落より取りて命名したる也。
(初出:大町桂月「北海道山水の大観」『太陽』29(8) 1923, p3)
近くに層雲別という集落があったことが命名のきっかけでした(6)。アイヌ語で「ソーウンペツ」は「滝のある川」を意味します。
また、層雲峡のふもとには温泉があり、当初は発見者の名前にちなんで塩谷温泉と呼ばれていましたが、層雲峡の名が定着してからは、層雲峡温泉と呼ばれるようになりました。
日本地理大系 北海道、樺太篇
上川開発史
大町による随筆からわずか4年後の昭和2(1927)年には、層雲峡は「日本百景」に選定されました。これは、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社主催、鉄道省後援により企画されたものです。当初は「日本八景」を決める予定でしたが、候補地の推薦が殺到したため「日本八景」、「日本二十五勝」、「日本百景」と数多くの景観が選ばれることになり、層雲峡は峡谷の部で「日本百景」に入選したのでした。また、昭和9(1934)年には層雲峡を含む地域が「大雪山国立公園」に指定されています。
戦後は、観光の促進に伴い、層雲峡を訪れる観光客も年々増加していきました。さらに昭和42(1967)年には層雲峡と、大雪山の黒岳を結ぶロープウェイ・リフトが開通し、大雪山の景色を気軽に楽しむことができるようになりました。
こうして、20世紀初頭には呼称も定まっていなかった幽玄な渓谷が、半世紀のうちに「名所」として広く知られるようになったのです。
注
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- ^同上。太田が「霊山碧水」と名づけた後、小泉秀雄が「霊山碧水峡」と「峡」の字を加えました。小泉秀雄 著『大雪山 : 登山法及登山案内』(大雪山調査会 1926) pp.74-75
- ^例えば、『日本地名大辞典 第二卷』(日本書房 1939)には、「[層雲峡]石狩川の上流にある峡谷にて、霊山碧水峡とも云ふ。」と説明があります。
- ^いずれも、『大町桂月全集 別巻』(桂月全集刊行会 1929)に収録されています。それぞれの初出は、「北海道山水の大観」が『太陽』29(8)(1923.6)、「層雲峡より大雪山へ」が『中央公論』38(9)(1923.8)です。
- ^なお、層雲峡という名を世に広めたのは大町桂月ですが、命名には塩谷忠(1894-1958)という人物が深く関わっていたようです。塩谷忠は塩谷温泉(後の層雲閣)の初代経営者・塩谷水次郎の養子で、地元で新聞記者として長く活躍したほか、大雪山や層雲峡の開発に尽力しました。塩谷忠「峡名由来」『層雲峡四季』(北の女性社 1947)p.73、天野市太郎「ヌタクカムシュペ開山録」p.70